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★ わらまみれの青春 ★(連載)
修行時代の思い出、裏話などノンフィクションでお伝えします。
●2004/2/27 【18:珍味?】
私たち畳学校の裏手の方に小さなため池がありました。日曜の仕事が終わった後のちょっとした空き時間で、釣りに出かけるのが数少ない楽しみの一つでした。その池にはブラックバスがいて、みんなで競い合って釣りを楽しんでいました。「今日の晩ご飯はなに?」 「肉巻。」(肉巻とは畳学校の定番メニュー) 「またかよ!!」そんな会話をしていたら、誰かが「今夜のおかずはブラックバス。」と呟きました。その一言で「食べよう!!」と言う事になり、台所に持ちかえりました。調理法は次の3つでした。塩焼き、ムニエル、フライ、白身の魚でとてもおいしそうに見えましたが、誰が先に食べるかでもめました。
[塩焼き]臭みがひどい、 [ムニエル]生臭い、[フライ]スパイスの味しかしない、この様な感想だったと思います。思い立ったらすぐチャレンジするあの行動力、楽しむと言う事はすばらしいエネルギーですね。ちなみに、私はフライをおすすめします。
●2003/7/1 【17:愉快な仲間たち】
2年生になってから、やっと堂々と酒を飲めるようになりました(堂々と?)。安い焼酎を買ってきては、誰かの部屋で遅くまで語り合うのがとても楽しいひとときでした。仕事の話し、恋愛の話しなどなどストレス発散とばかりにハイテンションで過ごしました。そうしていくうちにだんだんと酒飲みの部屋≠ェ決まってきました、3号室です。あるとき誰かがこの部屋を飲み屋にしようと言った事で、夜になって先生がいなくなると部屋の明かりをオレンジの豆球にしてスナックになりました。部屋に入ると「いらっしゃーい」と住人であるマスターの石毛君が迎えてくれてます、もちろん常連の私はボトルキープをしてよく通いました。つまみはほとんど野菜炒め、飲み物は金色の大きなやかんに氷と水をたくさん入れて、それでただ焼酎の水割り、とおおざっぱなものでしたが何ともいえない良い雰囲気でした。今想うと懐かしく、酒を飲んでいろいろあったけどいい仲間に出会えたことにとても感謝しています。3号室の『スナック ティファニー』にまた行きたいなー。
●2003/4/17 【16:真夜中のバリカン】
長い長い1年が経ち、先輩が卒業し、新しい生徒が入学してきました。今度は自分たちが教える立場になるという事の責任感と同時に、日々の束縛から解放されるうれしさでいっぱいでした。朝はちょっと遅く起きてもいい、食事・掃除当番はない、多少の自由が許されるなど、やっと自分の時間が持てるような気がしてきました。ところが、人は慣れてくると余計な事ばかり考え、不満ばかり言うようになってくるものですね。ある日、千葉の冨松と学校の規則、やり方について色々と話し合っていました。時代に合っていないとか、このままでは学校の存続も難しいなど、色々な議論(不満の言い合い?)をした結果、校長に直談判しようという事になり、次の日の早朝、二人で思い切って想いをぶつけてみました。何となく話しは聞いてくれたものの、答えはとてもシンプルでした。「いやならやめろー。」それから私達は何も言えるはずがありません。その夜、"ワイルドターキー"を飲みながら二人で話し込みました・・・明け方になり、結局お互いの頭を刈り合いました・・・。その日からは何事もなかったようにもとの生活に戻っていました。今でもその酒を飲むと、「あの時俺達は何をしたかったのかな?」と懐かしい感覚が甦ってきます。
●2003/3/5 【15:これからの畳職人は】
写真をよーく見てください。消防隊でもなく、警察官でもなく、海上保安庁でもありません。なんと我らが畳訓練校の制服なのです(3人とも同期で右が私です)。風呂と寝るとき以外はずっとこのスタイルで、作業はもちろん美術館に来てくださったお客様の案内、外出するときも制服着用の規則がありました。84歳の校長先生がとても気に入っていた制服で、「これからの職人はネクタイぐらいしないとだめだっぺよー」という考え方から生まれたものらしいです。始めはあまりのミスマッチさに戸惑いましたが、特殊な学校だけに、慣れてくると「こんなもんだろう」と違和感がなくなりました。ただある時間を除いては・・・。私達の学校は丘の上にあります、生活用品を買うために月に何回か街まで出かけなければなりませんが、さすがにその制服で出かけるというのは年頃の若者にはとてもつらい事でした。山道を20分ほど下りそこからバスに乗るのですが、山道の途中にちょうどよい墓地がありそこで私服に着替えてから出かけていました。校長先生、ごめんなさい。しかし買い物に行くと「畳学校の生徒さん?」といつも聞かれるのは何故だったんでしょうか?これからの畳職人は斬新な変化が必要ですね。
●2003/1/22 【14:ムカデ油】
私達の学校は豊な自然に恵まれ、色々な生き物を見ることが出来ました。キツネ、タヌキ、ハクビシン、マムシ、ムカデ・・・あまり好ましくないのもいました。中でも一番強烈だったのが、ムカデでした。ムカデと言うと、軒下などの湿った石ころをひっくり返すといるような、せいぜい2〜3センチのを想像しますよね、私もそうでした。ある日、花壇の整備をすると言う事で駐車場の隅に積んであったブロックを運んでおりました。突然誰かが叫びました、「なんだこりゃー!!」みんなで駆け寄って見てみると、ものすごいものがいるではありませんか。縁日で売られているゴムで出来たヘビ、カエル、大グモなどの中に大ムカデのオモチャもありましたよね。体調が20センチくらいあったでしょうか、生きた大ムカデがいたのです。色はメタリックな黒と赤で、毒を持っており、すばやく動くその姿に驚きました。みんなで騒いでいると校長が現れ(当時84歳)、「捕まえて油に漬けとけー、薬になるんだー」と私達に指示したので、何の薬になるかも知らずにビンに油を注ぎムカデを漬けておきました。ムカデ油のこと忘れかけていたある日、青森の奴が針を刺してしまい手当てに行ったところ、校長に「ムカデ油塗っとけー」と言われ、不安と疑いをいだきながらも断ることが出来ずに塗ってきました。傷薬だったのか・・・ケガしたくない!!効き目があるのかどうかは青森の佐々木君にしか分かりません。
●2002/12/6 【13:出仕事・でしごと】
畳職人としてある程度形になってきた頃、栃木県の「古峰神社」から畳替えの依頼がありました。通常は[持ち込み仕事]と言って仕事場に持ちかえって加工するのですが、現場が遠い事と枚数が多いために一泊二日のスケジュールで[出仕事]をする事になりました。畳を機械でつくるようになる以前は、出仕事が当たり前でした。お客様の庭先などをお借りして道具を持ち込み、1畳ずつ手で縫っていたそうです。「古峰神社」はとても大きな神社で、建物、庭など維持していくために多くの職人達が出入りしていました(ちなみに畳は三千畳位あるそうです)。そのため、泊まりこんで仕事をする職人用の宿泊施設もありました。慣れない環境での仕事でしたが、とても貴重な体験をする事ができました。夕食の後、仲間たちと仕事の話やらいろんな話をして過ごしました、修学旅行みたいな雰囲気だったのかもしれません。次の日も早朝から仕事と言うことで、興奮も冷めないまま寝る事に・・・。「疲れたなー」と布団に入ったら足がだいぶ出ているではありませんか。昔の職人さんたちは小柄な人が多かったのかななどと想いを馳せながら眠りにつきました。
●2002/11/6 【12:里帰り】
お盆前になると畳店はとても忙しくなります、学校のほうでもその事はよく分かっていたので私達にお盆休みをくれました。遊ぶ暇はありませんが実践で勉強するのが一番、ちょっと自信がついた私は現場に飛び込みました。気合は十分だったのですがやっぱりプロの世界は甘くありません、技術、スピード、全てが半人前でした。久しぶりに会った友達と酒を飲みながら「職人だぜ」といきがっていた、なんとも情けなくて、かわいい自分がいました。
●2002/10/15 【11:赤浜】
日曜の観光案内が終わると少し自由時間が出来ました(日曜の昼・夕食は各自なので)。天気の良い日は犬の散歩を口実にして、近くの海岸までよく出かけました。片道15分位で砂浜と太平洋が待っています、やっぱり海はいいですね、でも残念な事にこの海岸は潮の流れが速くて危険だったので泳ぐ事はできませんでしたが(先輩が流されかけたらしい)、日頃のストレスから開放され皆で相撲を取ったりしていました(青春ですね)。夢中で遊んでいると時間を忘れていつのまにか暗くなっていたりと、私達にとって良い気分転換になっていました。が、たまに訪れるカップルを発見すると、一瞬静かになって今度は空騒ぎしたりしてと、ほろ苦い思い出もあるのです。今でも海を見ると心が落ち着きます。
●2002/8/9 【10:あかぎれ】
畳を作るようになってから、白魚のようだった?指もだんだん太くなり、少しづつ職人の手になっていった。二寸(約6センチ)もある「わら」でできた固い板を包丁でザクザク切り、五寸(約15センチ)の太い針で縫い上げる、そんな仕事をしていると自然に体が順応してくるものです。手がタコだらけになり、腕に筋肉がついて太くなってくると、なんだか一人前の職人になったようで嬉しくなっていました。しかし、固くなった手というのは寒い時期になると指先がどんどん割れてきます。やっぱりあかぎれは痛いですね、洗濯機の前で立ちすくむまだまだひよっ子だった自分がなつかしいです。洗剤はしみるんですよー。
●2002/7/16 【9:寝る子は育つ】
寝るときにはカーテンを閉めませんでした。朝が早起きと言うことで寝坊しないように工夫していたのです、目覚ましが鳴る頃には朝日がまぶしくて寝ていられませんでした。起きてからは草むしり、掃除、食事当番など色々な仕事をこなしていました、毎日が緊張していたせいか朝に弱い私でもなんとか続ける事ができました。でも、人間慣れるという事は怖いものです、昼休みにうっかり寝てしまい起きたら三時近くになってるではありませんか。飛び起きて仕事場にいってみるとイヤな空気・・・沈黙の重圧に負けそうになったとき、「表に座ってろ」と先輩から言われ砂利の上に正座しました。何時間座っていたでしょうか、暗くなり始めた頃先生方と先輩が一緒に近づいてきました。先生が流暢な茨城弁で「もう勘弁してやったらいがっぺよ」と仏様のような言葉を言って下さいました。あの数時間、何を考えて座っていたかは覚えていませんが、何かを学んだような気がします。
●2002/6/24 【8:いそぱん】
授業のなかに一般家庭の畳替えの実習があり、一年生の私は時々先輩達についていった。朝、畳を預かりに行った帰りは必ず「いそぱん」(正式には磯屋菓子店だったような)に寄り道した。いつも腹が減っていたみんなにとってそこの調理パンは大好物だった、しかも安いということで代々訓練生が通っていたらしい。私もそこに通う事になるのですが、たまにそこのおばちゃんが酒蒸し饅頭をおまけにくれたときの励ましの言葉はとても嬉しかった。今考えるとちょっとしたことなんだけど、その当時は安らぎの場だったような気がします。ロールパンにポテトサラダをはさんだ「サラダパン」食べたいなー。
●2002/5/29 【7:瞬間接着剤】
畳を作るときには色々な種類の道具を使います、ほとんどが刃物や針で危険な道具が多いです。慣れないうちはやっぱり怪我が多いです。自分の指を串刺しにしたり、包丁で切ったりと思い出の傷が今でも残っていて、それを見ると当時の事を思い出します。特に思い出深いのは右手中指の切り傷で、詳細は覚えていないのですがその時期は雰囲気的に怪我したことを言えないような状況だったと思います、けっこう血が出てバンドエイドぐらいでは追いつかないくらいでした。ふと道具箱を見るとアロンアルファーが目に入りました、以前に傷口を接着剤でくっつける治療法を聞いた事があったので思いきって2〜3滴垂らしてみました。結果、傷口はふさがり血も止まり大成功でした、が、そのときの雷が落ちたとも思わせる激痛を体験してからはもう使うことがありませんでした。
●2002/5/8 【6:観光案内】
観光客が大勢やってきます、大型のバスで何台も来るときもあります。何を見学にくるかと言うと、畳工芸の美術館が校内にあるのです。一般に畳というと四角い長方形のものをイメージする方が多いと思いますが、私達の学校は工芸品にも力を入れています。展示品は、お寺で使うような有職畳と言われるようなもの(得意分野で紹介してます)や、畳の壁飾り、屏風、衝立などの作品が展示されています。なかでも人気があったのは、壁から天井からテーブルまで全て畳で作った部屋があり、その中で記念写真を撮ることでした。珍しい美術館ということでたくさんのお客様に来て頂くのはとても嬉しいのですが、案内をするのは1年生の仕事で忙しいときは案内で1日が終わる事もありました。当時は「何で俺達が!」みたいな気持ちもあったのですが、今考えてみると接客の勉強になったのかななどと思い出す事があります。
●2002/.3/25 【5:初畳】
一通りのことを覚えた頃に、「今日は畳作るぞー」と先輩が言った。やっと本格的になってきたなと期待していたのですが、古畳を分解してまた縫い直す作業だと聞いて「なんだ〜」という感じでした。今思うと初心者なんだから当たり前だと思うのですが当時は何も知らなかったのですね。いざ作業を始めるとなれない道具ばかりで思うように進みませんでした、特に針を畳に刺す、抜くことがこれほど大変な作業だとは思いませんでした。作業開始から二日目の午後やっと不恰好な畳が出来あがりました、1枚作るのに1日半もかかってどーするんだ、最初の勢いはどこへいってしまったのでしょうか?
●2002/3/11 【4:古臭いと言われても】
畳の勉強の中で苦労した事に、「尺貫法」がある。私は工業高校出身だったので、物の大きさを表すにはメートル法(例えば10メートル、10ミリなど)を使っていたし、授業の中ではISO(国際基準)の単位なども習っていた。ところが、畳の世界では三尺とか三寸三分という単位が使われており、慣れるまでとても時間がかかりました。さらに、畳の世界では五寸三分あまくという表現があります、"あまく"ってなに?と思いました、それは目盛りに無い目盛りをよむ"感覚"なのです。何かアバウトに見えますが、熟練と言うのはそういう感覚を磨く事で良いものを作っていく事ではないでしょうか。「オーライ、オーライ、あと二尺!!」今では自然に出てきます。
●2002/2/4 【3:カレーなる料理人】
寮生活では、三度の食事が自炊ということで各部屋ごとに当番制で料理をしてました。献立は大体決まっていて材料は準備されていたのですが、料理などしたことがないやつばっかりで最初は苦労しておりました。見たことも、味わったこともないような料理を沢山食べることができました。私達が初めて当番のときはカレーでした。ボーイスカウトで作ったことがあったので簡単に作ることが出来ました。が、カレーは煮込んだ方がおいしいと言う事でコトコトと火に掛けておりました。余裕で雑談をしていると、なにやら香ばしい臭いが・・・そうなんです、鍋底に1センチくらいのお焦げができていたのです。あの時のほろ苦いカレーの味は今でも思い出されます。
●2002/2/4 【2:ルームメイト】
訓練校の生徒は毎年10名の限定で、同期生は10人でした。寮生活では6畳間に二人ずつで1号室から5号室まであり、私は2号室でした。千葉県出身の冨松という相棒は坂本竜馬が好きだと言う堅そうな奴でした。少々柔らかかった私はうまくやっていけるかなと最初は心配していましたが、すぐに打ち解けました。お互いに神経質そうな感じだったのですが、いつも洗濯物が山積みで2号室に遊びにくる奴はほとんどいませんでした。このとき彼との出会いが私の人生に大きな影響を与えるとは気付くはずもなかったのでした。
●2002/1/28 【1:陸の孤島】
1990年4月、私はこの学校に入学しました。山の中にあり全寮制で校舎も寮も同じ敷地内にそろっていました。校則はその当時でも珍しい坊主頭に酒・タバコ禁止、朝は6時に起きて草むしりをしてから朝食・・・などなど修行僧のように大変厳しいものでした。入学前、そんな校則はいまどき建前だけだろうと軽い気持ちだったのですが、入ってビックリ!!その校則は生き生きと徹底されていたのです。一番きつかったのは外出禁止でした、19歳の遊び盛りなのに・・・でも、もう後には引けません。寮生活最初の夕方、トイレで用をたしながら、ふと窓から外を眺めると太平洋が見えました。「綺麗だなぁ・・」と見とれているうちに「とんでもない所に来てしまった」と、とてつもない不安が襲いかかってきました。
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